ざっくり言えば
- しばらくは「中国語」として漢字を使っていた日本人
- 「日本国内で、和文として」漢字が使い始めたのは、5世紀頃から
- 初期の日本語文が刻まれた銅鏡と鉄剣
- 6世紀の儒教・仏教伝来、漢文が読める日本人が急増
しばらくは中国との交流でのみ使われた漢字
6世紀の仏教伝来で、 漢字を読む日本人が増えた。 画像の引用元:日本経済新聞 |
中国との交流のためには、当然「中国語」の読み書きできなければなりませんね。
すでに漢委奴国王印の時代から200年以上も過ぎていたこの頃、日本でも漢字の読み書きができる人は一定数存在していたはずでしょう。
ですがその「漢字」とは、あくまで「外国の言葉」でしかありませんでした。
4世紀以前までは、(中国との外交手段ではなく)日本列島で使われた「国内用言語」は文字で記録しませんでした。
当時の日本語は、口伝がメインだったんです。
当時の日本語は、口伝がメインだったんです。
鉄剣と銅鏡:「和文」としての漢字は、5世紀から
漢字が中国語ではなく「和文」として使われ初めたのは、およそ5世紀頃からです。
(仏教伝来以前の)初期の日本語が文字として記録された代表的遺物は
- 和歌山県の隅田八幡神社が所蔵する『人物画像鏡』
- 埼玉県の稲荷山古墳で出土された『金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)』
があります。
この2点の遺物は、漢委奴国王印のように中国から来たのではなく、日本列島内で制作された物です。
かつ人名地名を含む「日本語」が、ちゃんと漢字で刻まれているのです。
かつ人名地名を含む「日本語」が、ちゃんと漢字で刻まれているのです。
日本国内で、日本人の手で、日本語としての漢字の使用は、この銅鏡と鉄剣が先駆といえます。
(加えて金錯銘鉄剣の出土場所(埼玉県行田市)を通じて、当時のヤマトの勢力範囲がすでに関東地方まで広がっていたことがわかります)
6世紀:儒教・仏教の伝来、そして急増する漢字使用人口
稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた文字は115字です。
同時代の他の遺物に刻まれた文に比べると結構長いですが、それでもまだ簡単な短文の域を出ませんね。
同時代の他の遺物に刻まれた文に比べると結構長いですが、それでもまだ簡単な短文の域を出ませんね。
日本の人々が本格的に長文の漢字を使いはじめたのは、儒教と仏教が伝来した6世紀からです。
古事記によれば、百済の「王仁」という人物が「論語」を日本に持ち込んだとされています。
そして西暦513年、継体天皇の時代にも百済から儒学者集団が渡日しました。
儒教伝来から間もない西暦552年、今度は仏教が日本に流入します。(538年とする説もあります)
儒教も仏教も、宗教でありながら、膨大な量の学問体系でもあります。
そしてそんな複雑で体系的な知識と思想を吸収するためには、長文の漢文で書かれた書籍を読む必要がありますね。
そしてそんな複雑で体系的な知識と思想を吸収するためには、長文の漢文で書かれた書籍を読む必要がありますね。
そうして仏教と儒教の書籍を通じて、本格的な漢文が日本中に普及し、漢字を読める日本人が急増したのです。
5世紀の「鉄剣と銅鏡」、そして6世紀の「儒仏の経典」。
これが「日本語としての漢字」の先駆けでした。
これが「日本語としての漢字」の先駆けでした。