2021年2月4日木曜日

【漢字・日本語の歴史】「日出処の天子…」聖徳太子の国書は告げる、日本は中国と対等だと

 ざっくり言えば

  • 2回目の遣隋使(607年)として派遣された小野妹子
  • 遣隋使を通じて随の煬帝に伝えられた国書「日出処の天子…」
  • 「日本はもはや中国の冊封国ではなく、対等な関係の国」これが国書の内容
  • 日本の自主独立精神は、この国書から始まった


(最近は「聖徳太子ではなく「厩戸王」と呼ぶべきだ」とか「そもそも聖徳太子は実在していなかった!」など新たな学説が登場しています。

ですが、ここでは今までの通説に則って解説させていただきます)


合わせて3回も派遣された遣隋使


後漢の滅亡から6世紀末まで、中国大陸は分裂が続く「魏晋南北朝時代」でした。
その長い分裂を終えて再び中国を統一したのは「随」です。

日本は当時の先進国であった随に使節を派遣しました。これが「遣隋使」です。
遣隋使はそれぞれ西暦600年、607年、608年、合わせて3回送られました。

そして607年、2回目の遣隋使に小野妹子が派遣されました。あの歴史的に有名な国書と一緒に。



「日出処の天子…」随の煬帝に伝えられた国書


タコタコ星人、随の煬帝になりすます(嘘)
「おのれ!ジャ○プ如きが
『日出づる処』だとぉ?!
タコタコ星人舐めるな!

遣隋使として随に渡った小野妹子は、国書を随の煬帝に伝えました。そこには…

「日出處天子、致書日沒處天子、無恙云云」

と書いてありました。

日本を「日出づる処」、随を「日没する処」、
そして日本側の君主(天皇陛下)を、随と対等な「天子」として称していますね。

漢委奴国王印」の時代から、あの国書が出される直前まで、日本は中国の冊封国でありました。

中華の皇帝が華夷秩序の中心にあり、その周辺国は中国の臣下である…
日本(倭国)も、そんな中華皇帝の臣下の一つでした。



あの国書こそ、日本の自主独立の始まり


しかしこの「日出処…」の国書を通じて、聖徳太子は告げられました。

「日本は決して中国の臣下ではなく、対等な帝国」であることを。

もちろん、煬帝は怒ったでしょう。中華皇帝だけが唯一の天子であり、他の国は中国の下僕という中華思想の為…

ですが、再び日本を中国の臣下として引き止めることはできませんでした。

日本の自主独立精神は、「日出処の天子…」の国書から端を発したのです。


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