2021年2月28日日曜日

2月7日は北方領土の日、2月22日は竹島の日。来年こそ忘れないで!全て日本の大事な領土だよ!

 

ざっくりいえば

  • 2月7日は北方領土の日、2月22日は竹島の日
  • 北方領土竹島日本の領土
  • (うp主も今年はつい忘れてしまいました。恥ずかしい)
  • 皆さん、北方領土の日・竹島の日を忘れないで下さい!



うp主もうっかり忘れた北方領土・竹島の日


北方領土と竹島。我が日本の大事な領土でありながら、ロシア・韓国によって不法占拠されている状態です。

2月7日・2月22日は、それぞれ露韓に占領されたままの北方領土・竹島のための記念日です。

そんな大事な日を、今年のうp主はうっかり忘れてしまいました。

本当にお恥ずかしい限りでございます。



北方領土は日本の領土!


北方領土…いずれか日本に復帰する日まで…
ロシアに占領されたままの北方領土…
だが、いつか日本に復帰すると信じます
画像の引用元:外務省


1945年8月、ソ連は終戦直前に突如として中立条約を破棄して日本に宣戦しました。

ドサクサに紛れてソ連軍は南樺太と千島列島を占領しました。そしてそのままソ連・ロシアによる北方領土の占領状態は今でも続いています。

二次大戦が終わってから76年…北方領土は、いまだに日本に帰って来ないままです。

しかしここで諦めてはいけません。いくらロシアが意固地になって、軍を動員して脅かそうとしても、絶対諦めてはいけません。

北方領土は日本の大事な土地です。ロシアによる占領行為をこのまま受け入れてはなりません。必ず取り戻すべきです。



一度だけ竹島が韓国領と「なりかけそうな」時があった。でも結局は日本領だよ


参考記事:【ゆっくり解説】竹島はなぜ日本領?

竹島は日本の領土です。紛れもなく日本の領土です。

ですが、たった一度だけ、危うく竹島が韓国領となりそうな時がありました。
それは島根県の竹島編入直後の時でした。


1905年(明治38年)1月28日、日本政府は隠岐諸島と鬱陵島の間にある島を「竹島」と名付けて島根県に編入しました。

この時、鬱陵島(朝鮮領)の郡守がイチャモンをつけて来ました。「そこ、うちの鬱陵島の一部だよ!」と。

ちょっとした口論のあと、鬱陵島の役人が朝鮮政府に問い合わせることにしました。果たしてその島は鬱陵島の一部で朝鮮領なのか?

朝鮮政府の反応は…

朝鮮政府の返事は…

はい、見事に音信不通でした。朝鮮の王様は、昼寝でもしていたのでしょうか?
こうして、竹島は無事に日本の領土として確定したのです。

しかしそのあと、韓国は1952年に竹島を不法占領します。ロシアと同じく「領土不拡大の原則」の違反です。しかも日韓は戦争状態ですらなかったのに!

そのあとも、日本政府は繰り返し韓国に竹島返還を要求してきました。
よって今でも竹島に対する日本の領有権は健在です。

韓国が竹島のことで日本を恨むのはまったく筋違いです。
恨むなら、竹島編入当時にグッスリおねんねして音信不通だった、鬱陵島役人からの問い合わせも未読スルーした朝鮮政府を恨むべきでしょうが。


そして韓国は直ちに竹島を日本に返還すべきです。



毎年「北方領土の日」「竹島の日」忘れずに


マスコミは北方領土の日も竹島の日も積極的に取り上げませんでした。

ですが日本の領土返還に関わる大事な日を、またうっかり忘れるわけにはいきません。

来年こそ

  • 2月7日、北方領土の日
  • 2月22日、竹島の日

を忘れずに!

そして政府は、真面目に日本国民の生命と財産、そして領土主権を守る努力をしてくださいな!


2021年2月23日火曜日

【天皇陛下万歳】今日は今上天皇陛下の御誕生日です。

天皇皇后両陛下万歳!
第126代天皇陛下、御誕生日御目出度う御座います。
画像の引用元:Business Insider


2月23日今日は、第126代目天皇、徳仁陛下が御誕生日を迎えられた日です。

今上天皇陛下、御誕生日誠に御目出度う御座います。

天皇皇后両陛下万歳!


画像の引用元:壁紙.com


そして天皇皇后両陛下の御見守りのもと、1億2千万の我が日本国民にいつまでも栄え非んことを心からお祈り申し上げます。

日本國万歳!


2021年2月11日木曜日

【琉球語】古代日本語から枝分かれした、日本語の「姉妹言語」 - 日琉同祖論が概ね正しい理由

 ざっくり言えば

  • 琉球語は、日本語の「方言」ではない
  • でも同じ日本語族に属する「姉妹言語」ではある
  • 3~7世紀頃、中古日本語から枝分かれした琉球祖語
  • その琉球祖語の話者たちは、殆どが10~12世紀頃に九州から琉球諸島へ移住した
  • 日琉同祖論は、概ね正しい



琉球語は、日本語の「親戚言語」


沖縄語をはじめとする琉球諸語は、よく「日本語の方言(?)」とされることが多いです。

その反対に、「そもそも琉球語は日本語と全く関係ない言語(?)」だという声もあります。(特にサヨクの政治団体から!)

さあ、どちらが正しいでしょう?
…何れも不正解です。


琉球語は、上代日本語から枝分かれした、いわば「日本語の親戚言語」です。

琉球語と日本語は、同じ「日本語族」という言語グループに一緒に属します。


琉球語は、同じ日本語族に属する「日本語の姉妹言語」である
「日本語族」:日本語と琉球語が一緒に属している。
琉球語は、上代日本語から枝分かれした、「日本語の姉妹言語」である。



71%の一致率!日本語と琉球語を比較した結果


もちろん日本語と琉球語は、口頭ではほぼ通じません。ですから「方言」扱いするのはちょっと難しいですね。

同じ琉球語でも、地域ごとに方言の差がありすぎて、隣の島と言葉が通じないことも多いです。
(「琉球語』という一つの言語があるのですなく、島ごとに別々の独立した言語があって、それをまとめて「琉球諸語」と呼ぶべき…という意見もあります)

それでも元を辿れば、みんな同じ言語から枝分かれしたのです。
ゆえに日本語と琉球諸語は、殆どの基礎語彙が共通しています。


例えば標準日本語と、琉球語沖縄方言を比較してみると、両言語の基礎語彙は71%も共通しています。
漢語などの借用語を除いた、純粋な固有語だけで比較した結果がこれですよ。

(ちなみに英語とドイツ語との語彙共通率は、およそ60%です)

あの高いシンクロ率を見ると、いかに日本語と琉球諸語が極めて近い関係にあるのかが分かります。


参考として、こちらに日本語と沖縄語の「基礎語彙表(スワデシュ・リスト)」があります。ぜひ両言語の語彙表を比較してみて下さい。(下記のリンク先参照)

日本語:https://en.wiktionary.org/wiki/Appendix:Japanese_Swadesh_list

沖縄語:https://en.wiktionary.org/wiki/Appendix:Okinawan_Swadesh_list



琉球祖語:3~7世紀頃に古代日本語から分化


沖縄語をはじめとする琉球の諸言語は、古代の「琉球諸語」から派生しました。

その「琉球祖語」が日本語から別れたのは、およそ3~7世紀(ちょうど古墳時代)と考えられています。

なぜなら琉球祖語には

  • 「動詞の終止形」と「連体形」を区別している
    • (※標準日本語ではどちらも「~た」で統一)
  • ハ行の子音がP音になっている

など、奈良時代より以前の日本語の特徴が残っていますから。

言語学者の服部四郎は、京都方言と首里方言は1450~1700年前に分岐したと計算しました。



10~12世紀:琉球語をしゃべる人々は、九州から琉球諸島へと移った


7世紀までは日本語から分岐した琉球祖語ですが、この古代琉球語の話者たちはしばらく九州にとどまっていました。

彼らが本格的に琉球諸島へ移ったのはおよそ10~12世紀頃、平安後期から鎌倉時代までの時期です。


もちろんそれ以前にも琉球諸島は、日本の影響下にありました。

『続日本紀』には、信覚(石垣島)・球美(久米島)からの人々が来朝したという記録があります。
中国生まれの僧侶である鑑真は、日本にやってくる途中で「阿児奈波(おきなわ)」島に着いたとされています。

内地に近い奄美群島は、特に朝廷との結びつきが強くて、一定の実効支配が行われていました。

『延喜式』には、奄美大島の名前のほかに停泊所、給水所、航路の道標が設置されたことが記されています。

喜界島には太宰府の出先機関も設置されました。
998年(長徳4年)、太宰府はこの出先機関に「反乱を起こした南蛮人(奄美大島)を追補せよ」という命令を出しました。


琉球諸島に対する日本の影響は昔からあって、その間に九州にいた琉球祖語の担い手たちも少しずつ南の島々へ移っていたでしょう。

しかし内地から琉球へ、本格的に多くの人々が移住したのは10~12世紀頃です。



日本本土との断絶、そしてアジア大陸からの影響… そうして独自発展した琉球諸語


琉球諸島へ移った人々は、しかしそのあと日本本土との連絡が断たれました。

源平合戦、蒙古来襲、南北朝時代、そして戦国時代…
内地では数多くの歴史的大事件が立て続けに発生していましたから。
南の島々ごときに気を使うどころじゃなかったんです。

琉球諸島に取り残された人々は、その一方でアジア大陸から多くの影響を受けました。

もともと琉球諸島はアジア大陸と近いですね。日本列島の一部でありながら…
琉球は立地的に日本本土とアジア大陸をつなげる中継点です。

必然と中国・東南アジアと交流が多くなって、これらの国々から文化的な影響を受けるようになりますね。


もともと日本人だった人々が、琉球諸島に移住したあと、内地との往来が断たれる一方でアジア大陸からの影響を受けた…

そうして琉球諸島の文化と言葉は、独自的に進化するようになりました。



日琉同祖論は、概ね正しい!


日本と琉球は祖を同じくするという主張がありますが、ほぼ正しいです。


もちろん100%まではいきませんね。実際に琉球諸島には、中国・東南アジアからやってきた「非日本系」の渡来人グループも多くありました。

(代表的には、1392年に中国東南部の福建地方から、沖縄の久米村に集団移住した「久米三十六姓」グループがあります)


しかしそんな「非日本系の集団」まですべて含めてみても、琉球人のほとんどは明らかに「日本系」です。

琉球諸島の人々は、大多数が「10~12世紀に九州からやって来た人々」の子孫です。


琉球諸島の文化の言語は、我が日本の大事な無形遺産です。

その琉球語は、日本語の姉妹言語です。
そして日琉同祖論は概ね正しいのです。


2021年2月4日木曜日

【漢字・日本語の歴史】「日出処の天子…」聖徳太子の国書は告げる、日本は中国と対等だと

 ざっくり言えば

  • 2回目の遣隋使(607年)として派遣された小野妹子
  • 遣隋使を通じて随の煬帝に伝えられた国書「日出処の天子…」
  • 「日本はもはや中国の冊封国ではなく、対等な関係の国」これが国書の内容
  • 日本の自主独立精神は、この国書から始まった


(最近は「聖徳太子ではなく「厩戸王」と呼ぶべきだ」とか「そもそも聖徳太子は実在していなかった!」など新たな学説が登場しています。

ですが、ここでは今までの通説に則って解説させていただきます)


合わせて3回も派遣された遣隋使


後漢の滅亡から6世紀末まで、中国大陸は分裂が続く「魏晋南北朝時代」でした。
その長い分裂を終えて再び中国を統一したのは「随」です。

日本は当時の先進国であった随に使節を派遣しました。これが「遣隋使」です。
遣隋使はそれぞれ西暦600年、607年、608年、合わせて3回送られました。

そして607年、2回目の遣隋使に小野妹子が派遣されました。あの歴史的に有名な国書と一緒に。



「日出処の天子…」随の煬帝に伝えられた国書


タコタコ星人、随の煬帝になりすます(嘘)
「おのれ!ジャ○プ如きが
『日出づる処』だとぉ?!
タコタコ星人舐めるな!

遣隋使として随に渡った小野妹子は、国書を随の煬帝に伝えました。そこには…

「日出處天子、致書日沒處天子、無恙云云」

と書いてありました。

日本を「日出づる処」、随を「日没する処」、
そして日本側の君主(天皇陛下)を、随と対等な「天子」として称していますね。

漢委奴国王印」の時代から、あの国書が出される直前まで、日本は中国の冊封国でありました。

中華の皇帝が華夷秩序の中心にあり、その周辺国は中国の臣下である…
日本(倭国)も、そんな中華皇帝の臣下の一つでした。



あの国書こそ、日本の自主独立の始まり


しかしこの「日出処…」の国書を通じて、聖徳太子は告げられました。

「日本は決して中国の臣下ではなく、対等な帝国」であることを。

もちろん、煬帝は怒ったでしょう。中華皇帝だけが唯一の天子であり、他の国は中国の下僕という中華思想の為…

ですが、再び日本を中国の臣下として引き止めることはできませんでした。

日本の自主独立精神は、「日出処の天子…」の国書から端を発したのです。


(漢字・日本語の歴史 目次へ戻る)


2021年2月3日水曜日

【ミャンマー】クーデター起こした軍部も、拘束されたスー・チーも「民主主義」とは程遠し。ミャンマー国民に「両方からの自由」を

 ざっくり言えば

  • ミャンマーでクーデター発生、軍部の政権掌握
  • アウンサンスーチーは軍によって拘束
  • 軍部側も、スー・チーも、どちらも「民主主義」とは遠い
  • ミャンマー国民は、スー・チーと軍部、両方から自由になるべき



ミャンマー軍のクーデター、アウンサンスーチー拘束


ミャンマーで、アウン・サン・スー・チー国家顧問らを拘束してクーデターを実行した軍は、閣僚の大幅な交代を発表するなど全権掌握の動きを強めています。これに対して最大都市のヤンゴンなどではスー・チー氏の支持者たちによる抗議活動が行われ、軍と国民の間で緊張が高まっています。

ミャンマーでは1日、軍がクーデターを実行し、アウン・サン・スー・チー国家顧問やウィン・ミン大統領のほか与党の幹部を相次いで拘束するとともに、期間を1年間とする非常事態宣言を出して、軍のトップのミン・アウン・フライン司令官のもと、全権を掌握しました。(中略)

(引用元:NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210202/k10012844851000.html


アウンサンスーチー
アウンサンスーチー
軍によって拘束された
画像の引用元:Wikipedia
2月1日、ミャンマーでクーデターが起きました。

クーデターを起こしたミャンマー軍部は大統領、与党幹部など政府要員を次々と拘束しました。

拘束された人の中には、ミャンマーの民主化運動指導者であるアウンサンスーチー国家顧問もいました。

全権を掌握した軍によって、ミャンマー全域で1年間の非常事態が宣言されました。

首都のヤンゴンでは、クーデターに反対する市民たちによって激しいデモが起きています。



民主運動指導者?しかし、そんなスー・チーだって「民主主義」とは程遠い人物


アウンサンスーチーは、「ミャンマーの民主化運動指導者」として知られています。

「民主化運動」経歴のおかげでノーベル平和賞まで受賞した人です。

しかしそんなスー・チーは、実は民主主義とは程遠い人物です。
(そもそも「ノーベル平和賞」なんぞ貰った時点で、怪しいでしょうが)

スー・チーは、むしろ民主主義を蔑ろにしている人物です。

2015年、スー・チーは「国家顧問」という地位に就きました。
国家顧問とは、国家元帥である大統領に「助言」を行うための役職とされています。
だが実は、スー・チーが政府を牛耳るための役職です。

軍部がクーデターを起こした以前からも、「事実上アウンサンスーチーの政権」は既に非民主的で権威主義的な政府でした。



ミャンマー国民に自由を… スー・チーと軍部の両方からの!


ミャンマー国民の自由を踏みにじる、軍部のクーデターは非難されるべきです。
そして同じく、アウンサンスーチーもまたミャンマー国民の自由を踏みにじる存在であります。

ミャンマー国民に必要なのは、スー・チーと軍部、両方からの自由です。

早くミャンマーに真っ当な民主主義政権が樹立されることを乞い願います。